宮部さんの江戸ばなし [└いろんな本たち]
宮部みゆき氏の『ぼんくら』を読んでから、
宮部ファン、というよりは、「宮部江戸ばなし」のファンになってしまった。
短編形式なんだけど、登場人物が同じものもあり、シリーズ読みとしてもおもしろい。
最近、読んだものでは、
『本所深川ふしぎ草紙』
『幻色江戸ごよみ』
『初ものがたり』
が、特に印象に残った。
知らないはずの「江戸時代の庶民のくらし」が舞台になっているのに、
現代を舞台にした物語よりも、ずっとリアリティに迫ってくる。
TVの時代劇や、今までの時代小説とも違う、生々しい江戸が出てきている。
たしか、どれかのあとがきにも書いてありましたが、全体に「落語」に出てくる世界観、雰囲気があるように思える。
内容は、宮部作品独特のミステリー仕立て、スリラー風、サスペンスタッチと多彩。
「回向院の茂七」親分が、いいんだな。
親分の作品を、もっと読みたい!!
『ぼんくら』宮部みゆき 下巻 [└いろんな本たち]
前回からの続き。
この作品の楽しみ方はいくつかあるが、そのひとつが「味覚」
『鬼平』にも食べ物がよく出てきますが、この物語にもよく出てくる。
「煮売屋」やら「振り売り」やら、それはそれは、うまそうなのである。
ところてんだの、だんごだの、そばだの、田楽だの。
『ぼんくら』宮部みゆき 上巻 [└いろんな本たち]
買い置きしてあった本をひょいと手に取って読み始めた。
すると、おもしろいこと、おもしろいこと。
あれよ、あれよと云う間に上下巻を完読しちゃいました。
「花のお江戸」のお話であります。
TVの時代劇ですと、江戸の治安を守っているのは「お奉行所」ということになっている。北町、南町のあるやつ、いわゆる町奉行です。
その長は「お奉行」で、大岡越前、遠山の金さんが有名。
配下に、「与力」という役職があり、さらにその配下に「同心」がいる。
『必殺シリーズ』の中村主水は「同心」
『大江戸捜査網』の左文字右京、井坂十蔵なども「同心」
トムは真夜中の庭で [└いろんな本たち]
フィリパ・ピアス(1920〜)の『トムは真夜中の庭で』です。
発表年は、1958年。『TOM'S MIDNIGHT GARDEN』345P
いわゆる児童文学の世界ではかなり有名なんだそうです。
図書館では、児童書のコーナーに置かれています。
対象が小学5.6年と書いてはあるものの、345ページのこの本は、内容密度の濃さからいっても、大人を十分満足させるファンタジー作品ですよ。
『ゲド戦記』 第3巻 [└いろんな本たち]
『ゲド戦記』 第3巻 さいはての島へ
この物語は、「アースシー」という架空の世界が舞台になっています。
多くのファンタジー物は、この架空世界に、異形の者(物)を多くちりばめ、特殊な超常現象を産み出して、現実世界との違いを構築していきます。
ところが、この物語にいたっては、驚くほど現実の世界に近く作っています。
もちろん、魔法が出てきます。
ただ、この魔法も、「奥様は魔女」的な万能道具としてではありません。
修行により会得した技能、あるいは自然の法則を解明した科学技術のような位置づけで、文字通り「何でも魔法のようにできる」わけではないのです。
実体として出てくる「異形の生物」もドラゴンだけ。
このドラゴンもモンスター(怪物)ではなく、知恵ある生物として描かれている。
人々の生活は、パンやチーズ、豆のスープを食べ、ワインを飲み、ヤギや羊を放牧し、畑を耕し、桃の木を育てる。
海へは、風を利用した帆船で行き来し、漁もすれば、海賊もいる。
鍛冶屋が刀や鍬を作り、機織り職人が布を織り、市場では絹の服が売られ、にせものを売る商人もいる。
時代的にはかなり古いとはいえ、とびきり現実離れした世界でもないようです。
→中世期くらいの西洋文化でしょうか。
ところが、この第3巻だけは、かなりすっ飛んだ話の展開となる。
死後の世界、魔界、地獄、異次元、闇、無、、、、、様々な表現で古今東西呼ばれてきたものと大賢人ゲドが対峙し、乗り越えていく物語。
冒険譚としては、おもしろい。
途中に出てくる「外海の子」と呼ばれる海の民との邂逅が印象的。
結末は読んでのお楽しみですが、この結末が、第4巻、第5巻へのプロローグともなっている。
→ちょっと気になったこと。
やたら寝ているシーンが多い。
水を飲む(あるいは飲めないで乾いている)シーンも多い
これは、全巻通じてのように思えます。
何か意味があるのか、単に作者の作風なのでしょうかねえ。
『ゲド戦記』 第2巻 [└いろんな本たち]
『ゲド戦記』 第2巻 こわれた腕環
本の帯には「青年ゲド、迷宮で少女と合う」となっています。
少年→青年→壮年→初老→晩年→(外伝)と各巻を位置づけようという、出版社側のシリーズのまとめかたの手法ですが、内容はそれほど単純ではない。
結果的にゲドの年齢とオーバーラップするし、ゲドが主人公であるのは間違いないのですが、各巻で作者の意図する主題は、かなり違うもののように感じられる。
実際には、第一巻を読んでいないと、話の深みが見えない所はありますが、基本的には、第一巻、第二巻はまったく別の物語とみてもさしつかえないと思います。
オムニバスで、娯楽性に富んだ、いかにもファンタジーな物語の第一巻に比べ、ひとりの少女を主人公に、ゲドを脇役に仕立てて、ひとつのエピソードを一冊かけて追いかけていく。
不可思議なダンジョン世界を舞台に、じっくり描いてみせています。
前回の足早さから一転します。
まとめてしまえば、腕環の半片を取りに行くというだけの話。
しかも、その腕環が何か不可思議な事を(具体的に)引き起こすわけでもない、
しかし、このエピソードが実質的には、シリーズ中で最も大きく(大事な)エピソードだと考えていいと思います。第四巻、第五巻へと続く、大きな源泉となっていきます。
派手さ、娯楽性としては、第三巻のエピソードなのでしょう。だから、映画の方も第三巻を核として描かれているようです。
でも、それは、他のファンタジーにもあるおもしろさです。
ゲド戦記のおもしろさは、この第二巻にあるように思えます。
前回は、かなり子ども向けだと思った作品でしたが、今回はちょっと年齢が上がった感じ。少女との恋愛(匂わす程度ながら)も入っているし、やや大人向けに方向修正されてきたように感じる。
真っ暗闇の地下ダンジョンが出てきますが、ギリシャ神話のミノタウロスの迷宮を思い出しました。モンスターなど一匹も出て来ないのに、迷宮を歩くシーンは、どきどきする描写でした。
『ゲド戦記』 第1巻 [└いろんな本たち]
『ゲド戦記』 第1巻
ついに読み始めました。とりあえず、第1巻を読了。
主人公ゲドの少年時代のお話です。
読んでいて、一番に感じた事は、話の進み方がはやいこと。
ひょっとして、2、3ページ飛ばし読みしちゃったんじゃないかと思うくらい、展開がはやいです。
これだけのストーリーを、たとえば、栗本薫さんの「グインサーガ」風に書いたとしたら、たぶん、3冊くらいにはなったでしょうね。
子ども向きのハイファンタジーという性格も関係していると思います。
ただ、だからといって、物足りないというわけではなく、つるつると読んでいける気持ちよさ、楽しさがあります。
物語の中心となる言葉は「真の名前」と「影」ですね。
「真の名前」は魔法を使う上でなくてはならないもの、知らなくてはならないものであり、自然現象を含め森羅万象の根源として表現されています。
また、魔法使いを、なんでもできるスーパーマンではなく、単に魔法という自然の摂理を知って使いこなしているにすぎない、賢者として位置づけられている。
この「名前」や「言葉」というものが、具体的な現象、出来事に影響を持つという思想、世界観は、日本人にもわりとわかりやすいのではないだろうか。
「影」は主人公ゲドの乗り越えるべき試練です。
読まれていない方のために、詳しくは書きませんが、自分で作り出したものに、傷つき、悩み、対峙するというのは、内面的な冒険行を意味し、実際の冒険譚と重ね合わせながら、主人公の成長が描かれていきます。
いくつものエピソードが織り込まれてはいますが、全体としては地味であり、このまんまだと、映画化(アニメ)するのはむつかしいのかなとは思いました。
ただ、本としては、おもしろく、その完成度はかなり高いのではないでしょうか。思わず、引きつけられてしまいます
そういえば、つい最近、原作者のアーシュラ・K・ル・グウィンさんが自己のホームページに、ジブリのアニメに対して、批判的な感想を書いています。
以下は抜粋です。
「全体としては、エキサイティングです。ただしその興奮は暴力に支えられており、原作の精神に大きく背くものだと感じざるをえません」
「原作本から採ったのは固有名詞といくつかの概念だけ、それも文脈を無視して断片を切り取ったのみで、ストーリーはまったく別の統一性も一貫性もないプロットに置き換えました。本だけでなく、読者をも軽視するこのやり方は、疑問に思います」
「現代のファンタジーでは、いわゆる善と悪との戦いにおいて、人を殺すというのが普通の解決法です。わたしの本はそうした戦いを描いてはいませんし、単純化された問いに対して、単純な答えを用意してもいません」
映画(アニメ)と原作本、表現方法の違いはどこまでいっても、違う作品としての評価をしなければならないのでしょう。
私は、まだ、映画を観ていません。
全作読んだ後で、観てみようと思います。
「博士の愛した数式」を読んで [└いろんな本たち]
一日で読んでしまいました。
読みが早い人には当たり前なのでしょうが、
遅読の私には、快挙な出来事です。
もうとにかく、読み始めたら、読みたくて読みたくて、
ほんの1.2分の合間にも本を手にするような感じでした。
やっと読めた『六番目の小夜子』 [└いろんな本たち]
『六番目の小夜子』恩田陸
ブロガーさんの記事を読んで読みたくなり、ずいぶん前に購入していながら、読む機会を失ってしまっていた本をやっと読めました。
いわゆる学園ものなのですが、青春(今頃あまり言わないですかね)の甘酸っぱい香りと学校の油引き(これも最近はないですか)の匂いがしてくる初々しい作品ですね。その時代へと引き戻されてしまいます。
清水義範の『はじめてわかる国語』 [└いろんな本たち]
清水義範の『はじめてわかる国語』を読んだ。
清水義範氏には一時はまって、当時出ている全作品を読んだ経験がある。
パスティーシュ(ニュアンスが少し違うがパロディのこと)の旗手とされているが、
私はそのことよりも日本語(国語、言葉)にこだわった多くの作品を持つ作者の
その妙味を味わいたくて読んでいました。
最初に出会った作品は『バールのようなもの』でした。
いきなり作品からではなく、立川志の輔師匠の新作落語から。
同名の落語の原作が清水義範氏の作品であるということで読み始めた。
日本語のあいまいな複雑さを実に奇妙で巧妙な作品に仕上げている。
『〜のような..』と付く場合、それの現す物は『〜』ではない。
『女のようなやつ』は女ではなく、男を指す。
『ダニのようなやつ』はもちろんダニではなく人間。
『夢のような出来事』は夢ではなく現実。
『肉のような味』といったら肉のことではない。
では、TVのニュースで言っていた
『泥棒がバールのようなものでシャッターをこじ開け、、、』の
『バールのようなもの』はバールでないとしたら、何なのか?
そして、この『はじめてわかる国語』では小学校の教科としての「国語」に、
するどく、そしてユーモラスに切り込んでいく。
お勉強シリーズの最新刊になります。
教科名が「日本語」ではなくて、なぜ「国語」なのか?
「国語」と他の教科「算数、理科、社会」との決定的な違い。
「国語」の持つあいまいさと道徳(倫理)まで取り込む特異性。
さらには、著者自身の作品が国語の試験に採用され、
著者の考えを問う問題において、著者自身がその正解(試験上の)を
見つけられないという冗談のような本当の話。
等々、堅苦しくならず例を挙げて解明し、切り崩していく。
言葉の乱れが激しい世の中へ対するアンチテーゼがここにあります。
野卑で安直な言葉の氾濫が減り、
美しい日本語のいいまわしがなくならないよう願いたいものです。